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IT HAPPENS.

水平線の理屈を臨む

靴紐を結ぶ手を一度休めてラタナポンは少しの間、前方を見つめた。次はどこへ向かうのかを問うような目つきだった。今年に入ってもう2度目の移動が始まる。この後、何をどうするかは勝手知ったる様子だがこの状況に慣れたくはないのか、どこか反抗的な面持ちだ。今いる場所も数年後には水で浸され、たった10年後の2090年にはその大地は完全に海に沈むと予想されている。

ある日、ラタナポンの住むエリアは居住が難しくなるとして住民は立ち退きするよう勧告を受けた。そして簡易な手続きを済ませると、あっという間に「難民」としての生活が始まった。何が起こっているのかわからなかったが、ただ言われるがままに土地を離れる準備をした。幸いにも「手に職」と言われる仕事をしている為、落ち着いたらどんな土地でも仕事は始められるから問題ないだろうと、当初はえらく楽観的だった。しかし彼を土地から追いやった要因である海面の上昇は時間が経ったからと言って収まるものではなく、むしろ進行の一途だ。故に一度移り住んだ場所から、まさに今更なる移動を行う最中なのである。

「地球温暖化」なんて耳馴染みのある言葉だが、自らの生活に影響を及ぼすなんて思ってもいなかった。ラタナポンの住居があった、ある程度の大きな都市でもそうなったことにも驚いたが、その後、後を追うようにどんどん主要都市でも同じ状況が生じていると知った時、彼は初めて大きく取り乱していた。世界に目を向けると島国のほとんどが消失し海面は更なる上昇の一途を辿り、移動に遅れた人々が水没した都市で生活し続けざるを得ない状況も生まれている。もはや救済をしないと判断された土地があることも知り、元の生活に戻ることをはっきりと諦めたようだった。

移動はある程度の人数をグループにして、集団ごとに行動していく。あふれ返った難民は個人や家族単位での勝手な移動を許容できる数ではないからだ。今回は前回より更に大所帯になっていて人波の中はとても蒸し暑い。ラタナポンは出発するまでの間、一緒のグループにいる友人と隣だって外へ出て、遠くに映る海岸線を見ている。大陸もいつの間にか島になったり、そもそも土地というものがなくなったりする日が来るのだろうかと想像した。それはそれでロマンがあるような気もして隣の友人に話しかけようとしたが、その口を噤んだ。友人は遠くに住む故郷の家族と消え入るような声で通話をしており、その表情は不安に満ちていた。

彼自身はこのあと世界がどうなっていくのかは考えないようにしている。そして家族や友人など自分の身近な人との再会についてもまた同様だ。今は日々精神を削られることに耐性をつけることを優先しようと努めている。だんだん人が住むに適さない土地の割合が増え行く世界では冷静でいることが何より大事だと言い聞かせている。
 
移動を開始する案内が係員から発せられた。大きくなり続ける海を一瞥してラタナポンは友人の肩を叩いた。またしばらく日常は続く。


 

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海面の上昇速度は、この10年で過去100年間の3倍近くに増大している。

温暖化の現状がこのまま続けば、2050年までに2億人の気候難民が発生する。

*国連による

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Director & Photographer HIDEYUKI HAYASHI

Director of photography TAKUMI KISHI

Starring SAYA BELLAMY

Hair Stylist HIROKI KITADA

Make Up Artist YOUSUKE TOYODA

Text KIE KAJINO

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