RELATIVE POVERTY
先進国における貧困の複雑性
これまで「経済大国」として語られてきたアメリカ合衆国と日本が、実は「貧困大国」であると聞かされたら、驚かれるであろうか。
事実を指摘する前に、まず、貧困とはなにかといった、きちんとした定義を示す必要があるだろう。貧困の定義は「絶対的貧困」と「相対的貧困」とに分かれている。絶対的貧困というのは、過去には、健康を維持するための最低限のカロリーや栄養素を摂取できない人たち、簡単に言えば「毎日ちゃんと食べることができない人たち」のことだと言われてきたが、最近は「食べ物を買うお金も充分にない人」を指すようになってきている。自給自足で食べている人は、ある意味、経済活動に参加していないと見なされるわけだ。2015年に国連と世界銀行が合同で発表した「貧困ライン」は、1人1日あたりの所得が1.25ドル以下としている。年収に換算すると450ドル前後で、世界の人口およそ72億人のうち、5人に1人に当たる約14億人が該当するとされる。これに対して相対的貧困というのは、その国の手取り平均所得の中央値(もっとも多くの人数が含まれる層。平均値とは似て非なるものである)に対して、50%以下の所得しかない人を指す。
冒頭で述べた通り、これまで「豊かな国」と思われてきたアメリカ合衆国と日本が、今やこの相対的貧困層が占める比率の高さにおいて、G7(日米欧主要7カ国)の中で1位と2位である。米国は17%強、日本は16%弱だ。OECD(経済協力開発機構)36カ国の中でも合衆国は2位(1位イスラエル)、日本は7位である(いずれも2017年の統計)ただ、いずれもGDPが大きく年収の中央値も高いという点は、見ておく必要がある。日本の場合で言うと、年収およそ2万5000ドル(250万円強)でも相対的貧困と定義される場合がある。絶対的貧困は年収450ドル前後であることを考えてみるとよい。どうして、このようなことになったのか。
1980年代以降、新自由主義と呼ばれる経済政策を掲げる政府が相次いで誕生した。米国のレーガン政権、英国のサッチャー政権、そして日本の中曽根政権である。鉄道など公共性の高い事業も相次いで民営化され、同時進行的に経済のグローバル化ということが言われはじめた。人(労働者と言ってもよい)、物、資金、そして情報が、国境を越えて移動するのが当たり前になってきたわけだ。この結果、IT産業などグローバルなビジネスで巨万の富を手にする人が出てきた一方、地道に働くことしかできない人たちは、より安い賃金で働く諸外国の労働者との競争にさらされ、実質賃金はどんどん目減りして行くこととなったのである。相対的貧困は、平均所得の中央値から算出されると述べたが、逆に「金持ちの比率」も同じ算出法が用いられる。たとえばアメリカ合衆国では、1980年代に上位1%が保有していた資産は、中央値の128倍程度であったが、2010年にはこれが288倍となっていた。別の視点から見ると、上位1%の資産総額は全米の33.8%に達し、一方、下位50%が保有するそれは2.5%にとどまっている。上位10%となると、所得総額の50%、資産総額の70%を占めている。
この結果、かつては日本以上に中流意識を持つ人が多いとされたアメリカ合衆国において、中産階級が崩壊した(多くが相対的貧困層に転落した)と言われるようになり、グローバリズムへの反感が高まってきた。これが、2016年にトランプ大統領を当選させる原動力のひとつとなったのだが、そのトランプ政権がどのような動きを見せているかと言えば、米国のエネルギー産業の利益を守るためと称して、パリ協定など環境保護の動きに背を向けたかと思えば、中国には「貿易戦争」を仕掛け、メキシコとの国境には壁を築くと公約して、議会ともめ続けている。いずれにせよ、これまで世界に向けて「自由とチャンスの国」であると誇ってきた国が、今や格差と貧困の国となり、持つ者と持たざる者の対立感情は深刻化する一方だ。そして第2次世界大戦後、アメリカ合衆国で広まった社会現象は、10年ほど遅れて日本でも広まるということが、これまで繰り返されてきた。さらに15年から20年経つと、今度は韓国はじめアジア諸国にも広まって行くとされる。日本だけでなく、先進国における相対的貧困の問題の、なにが一番深刻かと言うと、余裕のない家庭で生まれ育った子供は高等教育を受けるチャンスを事実上奪われるので、その結果、安定した職を得ることができず、次の世代、その次の世代へと貧困が再生産されていってしまうことである。
この状況を変えて行くためには、なによりもまず、とりわけ今は比較的安定した中産階級と位置づけられている人たちが、「所得の低い人たち=努力しなかった人たち」という偏見を捨て去ることである。その上で、努力しても報われないと皆が思ってしまうような社会構造は、皆の力で変えて行かなければならないが、それにはやはり、税制の大胆な見直しが必要だろう。フランスの経済学者トマ・ピケティが述べているように、金融資産に課税して行くのも一案だが、拙速にそうした政策を実施すれば、富裕層の資産は一斉にいわゆるタックス・ヘイブンに移動してしまうというリスクがある。ただ、相続財産や不労所得に対する課税を拡大して行くことはすぐにも可能であるし、社会的な理解も比較的得やすい。日本の場合は、消費税を福祉目的税に特化して行くことで、教育費と医療費の負担軽減を図るとよいのではないか。税金という制度には二つの側面があって、ひとつは政府の財源、そしてもうひとつは、富の再分配という機能である。ここで特に強調しておきたいのは、後者の富の再分配の機能は、格差が拡大して社会不安が生じることに対する「自動安定化装置」として機能してきた、ということである。ところが新自由主義の経済理論では、「金持ちを貧乏にすることによって、貧乏人を金持ちにすることはできない」という大義名分を持ち出して、グローバルなビジネスで富を得た、いわゆる富裕層や大企業から、あまり税金を取り立てない政策が採られてきた。これが目下先進国において、相対的貧困の問題が日々深刻化している大きな原因のひとつである(すべての元凶だとまでは言わないが)。そうであるならば、累進課税の考え方を復活させて行くとか、比較的簡単に実行できる対応策は、きっと見出せるはずだ。