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ユニークネスとサステイナビリティ

死者1134人、重軽傷者2500人以上。昨今、戦争でも一度にこれだけの犠牲者が出ることは滅多にないが、これはバングラデシュの首都ダッカの北西約20㎞のサバールという街にあった、縫製工場や銀行・商店などが入居していた8階建ての商業ビル「ラナ・プラザ」が崩落した事故で犠牲となった人の数である。単一のビル崩壊事故による人的被害としては史上最悪となってしまった。

 

事故発生は、2013年4月24日。ビルの上層階に違法に据えられた4台の大型発電機と、ひしめくように入居していた縫製工場で稼働していた、数千台のミシンの振動が原因だとされたが、もともとこのビルの5階から上は違法に増築されたものであった。しかも、前日には従業員によって壁の亀裂が発見され、通報を受けた警察は、検査のためビルから一時退去するよう勧告していたにも関わらず、ビルのオーナーや工場経営者はこれを無視した。そればかりか、従業員に対して、「通常通り出勤しない場合は解雇もあり得る」などと圧力までかけたという。このオーナーらは28日までに逮捕され、監督官庁の職員も含め、計41人が殺人罪で訴追された。また、このビルばかりではなく、バングラデシュの縫製工場で働く人々が、きわめて劣悪な条件と危険な環境で働かされていることが広く知れ渡り、同国に事業展開していた、スウェーデンのH&Mや米国のGAP、スペインのZaraといった大手アパレルが資金を拠出して、工場の安全性や労働条件を監視する機関を起ち上げた。そして地元消防機関とも連携し、多くの工場の立ち入り調査を実施したのである。この結果、かなりの改善が見られたのだが、事故後6年を経過した今年4月から、機関の閉鎖が相次いで取り沙汰され始めた。これでは遠からず、事故前の状況に逆戻りか、下手をするとさらに悪化するのではないか、と危惧する声も聞かれる。その理由は単一ではないが、同国の政財界に強い影響力を持つBGMEA(バングラデシュ縫製品製造・輸出協会)という組織が、こうした国際機関の閉鎖を強く望み、営業妨害などの口実で訴訟を乱発していることは、大きな要因だと指摘されている。

 

政府も、労働環境の改善には、本音では及び腰らしい。なぜそう考えられるかと言うと、こうした監視機関が閉鎖されても、政府にはその仕事を引き継ぐ能力があるので問題はない、などというコメントを、繰り返し発表しているからだ。バングラデシュにとって欧米のアパレルの下請け事業は、事業規模310億ドル(約3兆5000億円)に達し、今や同国の主要な外貨獲得手段にまでなっている。それを支えているのが人件費の安さで、もう少し具体的に言うと、これら縫製工場における労働者の最低賃金は月額95ドル(1万円弱)でしかない。とにもかくにも低コストを売り物にして、各国のアパレルから下請けの仕事を請け負うのが至上命題で、工場の安全性は軽視されていたのだ。このため、監視機関の活動にも関わらず、冒頭で述べた大事故の後も火災が繰り返し起きて、100人以上の犠牲者を出している。こうした問題について、「消費者の意識が変われば、このような状況も変えられるのではないか」といった声も聞かれる。大量生産で「使い捨て」に近い、いわゆるファスト・ファッションから、職人仕事の一点物や、古着のリサイクルなどにシフトして行けばよいのではないか、というわけだ。たしかにその方が、資源面でのメリットもあるし、長い目で見れば、ブランドのロゴなど見向きもせず、自分の個性を大事にしたいと考える消費者は、着実に増えて行くに違いない。もちろん、下請け工場の労働者の環境改善は、より重要かつ喫緊の課題だが。そもそも、誰かが欲しい物を安く買うことができるとすれば、それは他の誰かが安い賃金で生産しているからに他ならない。これは資本主義の昔から変わらぬ原理ではないか。

 

ただ、国家レベルで対応すれば、解決策は見いだせる。今までバングラデシュの労働者から搾取し放題だった、同国の工場経営者や、発注元のアパレルからもっと税金を取り立て、それを原資にして、労働環境の改善を目指すのである。危険な環境で働かせ続けるのは、一種の奴隷労働で、これまでは囚人や強制労働によって製造された製品の輸入に対して科せられていた輸入禁止措置を、一定の労働基準を満たさない製品にまで拡大すれば、法的な問題もクリアできる。安全のためとは言え、安易に設備投資や賃上げに走ったら、経済成長が阻害される上にインフレ要因にもなりかねない、との反論もあり得よう。これについては、なにも賃上げだけが労働環境の改善ではない、という答えを用意した上で、1960年代の日本の繊維産業を参考にするとよいだろう。1960年代と言えば、日本が敗戦後の復興から経済成長へと向かった時期であったが、まだまだ米国などに比べて賃金水準は低く、その安い賃金を武器に、1ドルで買えるブラウスなどを大量に輸出していた。ちなみに当時の為替レートは1ドル=360円の固定相場制であったが、これは事実上の円安で、日本の輸出産業を後押ししていたのである。

 

では、安い賃金で働かされていた、当時の日本の工場労働者に不満はなかったのか。もちろん不満に思う人がいなかったとは考えにくい。しかし、日本の企業経営者は、賃上げ以外の手段による労働環境の改善に熱心であった。社宅を作ったり、実業団と称される企業スポーツを奨励して、職場そのものだけではない、トータルな「働く環境」を改善したのである。もちろんコストはかかったが、そういう「いい会社」には働きのよい従業員が集まるし、会社の評判が高まることを広告宣伝費に換算すればむしろ経済的、という判断もあった。バングラデシュの工場とは真逆の行き方だったと言える。実際に当時の日本では、炭鉱の落盤事故や鉄道事故などを別として、大規模な労働災害は見られなかった。こうしたことができた背景には、経営者や管理職が「社員は家族」と考える、日本独特の、サムライの時代から続く思想がある、と指摘する人は多い。歴史も文化も大いに異なる国に、突然これを見習えと言っても無理だろうし、そうした態度は傲慢だと言われるだろうが、ルール作りの参考にするくらいは、よいのではないか。今や人、物、資金、そして情報が国境を越えて移動するのは当たり前の時代である。働き方のルールからも、国境を取り除いて行くことは可能だし、そうするべきではないだろか。

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